生徒会③
はいどうも。三日坊主理論でいくと今日で私は坊主ですMZKです。
今日でブログ開設から三日ですってよ。寒い中よく生きてますね我々。
んなこたどうでもいいから続きを書いていくぞ!
ーー生徒会長になった坊主は目標を達成できなかった事をきっかけに心身を壊し、生徒会を辞める決意をするのだったーー
2回目の学校祭で3年生の先輩方が演劇をしているのを見て泣いた。学校で泣くのは初めてだった。「今年はのど自慢大会やらへんの?」と言われる度に息苦しくなった。生徒会は何も為せていない。「学校の代表」に生徒を駆り出せたら体が良いだけだ。これは精神衛生上よろしくない。そう思って、もう生徒会は終わりにしようと腹を括った。
時は2年生の秋、後期生徒会役員選挙。
結論から言うと、生徒会は辞められなかった。
これは2年生になった春に勧誘を疎かにしてしまった事が原因かもしれない。新1年生に問題児が多かった事が関係あるかもしれないが。
そう、期限までに1年生が誰も立候補しなかったのである。
分からない人もいると思うので手順を書こう。立候補は大学入試の出願に比べるととても簡単である。職員室に用紙を取りに行って名前と公約を記入し、期限日の所定の時間までに担当の先生に提出するだけである。所定の時間は確か夕方だった気がする。オボエテマセェン
私が渋々用紙を提出したのは期限の前日だった。
しかも、この時私が立候補したのは生徒会長ではなく、「生徒会副会長」だった。逃げた。逃げたぞこいつ。業務内容変わらねぇのに名前だけ逃げやがった。
期限日の放課後、期限を越しても生徒会長枠の立候補者がいないということで、私に焦りが向けられた。会長を辞めたい私のささやかな抵抗すら退けられるのかと正直うんざりした。
だが、そこで唐突に4人の1年生が役職含めて立候補してくれることになった。とても唐突だった。当時の空気感はうろ覚えだが驚いて脳が追い付かなかったことは記憶している。
校則に載っている立候補期限は超過したが、役職枠が埋まらない現状の前に法は無用だった。
波乱を生みながらも、生徒会役員、及び生徒会長の枠が埋まった。私は晴れて?会長の座を降り、副会長になった。成り行きが不思議だね。ダネフシッ
後輩役員たちは熱心な子たちで、まるで1年前の自分を見ているようだと思った。新しい生徒会長は仕事内容がよくわからない様子だった。また、少しとぼけたような子だったので、補佐役である副会長の仕事に介護っぽさが加わって、不適切ながら面白かったのを覚えている。
会長の肩書を外した私は多少気が楽だったし、クラスメイトに会長と呼ばれた日には「副会長やぞ」と訂正するような謎の鉄板ネタができた。
ベタな事を綴るけれど、生徒会の仲間たちに支えられたおかげで会長・副会長をこなせていたのだと思う。心と胃はモヤモヤしていたものの、穏やかだった。
さて、言い忘れていたが、私たちが2年生になる年に校長先生が変わった。
後期、再び校長室での談判の時がやってきた。他の問題についても話し合わなければならなかったので、学校祭の演目変更について提案するにしても望みは薄かった。それでも、ネクタイを締めて気合だけは十分に談判へ向かったのを覚えている。
結果はまた失敗だった。新しい校長先生は、「演目の変更ぐらい良いんじゃない?」と、事情をあんまり理解していないようだった。演目変更の理由について聞きたいことが沢山あったが、暖簾に腕押しだった。
談判に同伴していた生徒指導の先生は、「1年の合唱、2年の演劇、3年の長時間演劇と、年を重ねるごとにグレードアップした演目を行うのが教育的な目的」「君たちが入学する前にダンスの演目で問題があったからダンスは取りやめにすると決めた」と説明してくださった。
これはもうどうしようもないと思った。
全校生徒の過半数の意見を無下にしておいてグレードアップなんて納得できない。
3年以上前の誰かが起こした問題を私たちの世代が尻拭いしなきゃならないのは何故?
思わず「は?」と声に出した。その節は申し訳なかった。
また感情が追い付かなかったけれど、とにかくイライラしていたのかメモ用に持参したペンのキャップをずっとカチカチ弄っていた。その節は申し訳なかった。
あまりにも期待していなかったのか、当時の談判の様子はほとんど覚えていない。
思えば高校2年生の頃の記憶自体がとても曖昧である。
来年度には3年生も卒業するということで、あの学校祭の熱意を覚えている世代は私たち2年生だけになってしまう。私たちがあの感動を生むチャンスは無くなったと、そう確信した。ついでに私の2年間の努力も消えたと。
だが、「学校祭で3年生の演目をダンスに戻したい」という2年生の願いは、思わぬ形で叶えられることとなる。
談判は1月頃だった。そしてそれから、新型コロナウイルスが流行り始めた。
続く